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真田丸 [芸能]

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shishi919です。


三谷幸喜脚本の真田丸、面白いですね。


毎週楽しみに見ています。


ちなみに視聴率が低かった花燃ゆも毎週見てました(^ ^;)


私的には何で視聴率が低いんだろう?と。。。思ってました。


誰にも言ってませんが。。。



話を戻すと



真田丸の主人公、真田幸村


正しい名は、真田信繁、真田左衛門佐信繁。


同じ年代の史料には ”幸村” という名前は出てこないようです。ではなぜ ”幸村” という名が。。。


一説によると、兄である信之が近習に ”信繁が幸村に改名した” と話したと言われてるようですが、真相は不


明。


そもそも ”幸村” と名乗ったことにも懐疑的な見方もあるようで、では何処から出てきた名前なんでしょうか。。。


どうも、江戸時代の ”難波戦記” という書物に ”幸村” と記されたものが発端らしいというのが有力説みたいですね。 ただし、これも確たる証拠は無いようですが。。。



さて、それでは真田丸とはいったい何なのか。



1614年、大阪冬の陣


豊臣側に就いた幸村は、最初の軍議で持ち場が決められた。そこは城の弱点に出丸を築いて守ることとなった場所、これが ”真田丸” であります。

ちなみに出丸とは城や砦の周囲に築いた土や石の囲いのことらしいです。


真田丸は、”大坂城玉造御門の南、一段高い畑のあった所に、三方に空堀を設け、塀を一重にかけ、柵を三重に付け、櫓や井楼があった” と記されています。 『大坂御陣山口休庵咄』より


また、その形は新月に似ていて、周りに空堀を巡らし、東西に長く南北に短かったとのこと。『武徳編年集成』より


真田隊の戦いぶりは見事で、家康は寝返るように二度も誘ったようですが、秀頼へのご恩があると言って断ったとされています。


結局、大阪冬の陣は和睦しましたが、次の年の夏の陣で豊臣家は滅ぼされます。


とはいえ、真田隊は家康本陣まで攻め入り、家康自身は切腹を覚悟したといわれています。『耶蘇会士日本年報』より


最後は負傷し休憩していたところを、鉄砲頭の ”西尾仁左衛門" に討ち取られたとのこと。『諸士先祖之記』より



享年49歳



兄である信之が幸村の人柄について語ったという言葉が残されています。『幸村君伝記』より


「物ごと穏やかにして、我慢の心がある。強がらず、怒ったり腹を立てることもない人物であった。」 



 







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